第4回「臨済寺」
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の「麒麟がくる紀行」にも登場した、住宅街の一番奥の、山裾を利用した静かなお寺。
臨済寺は妙心寺派の専門道場となっており、建造物、庭園内は春・秋の年2日、特別公開が行われる以外は非公開。春の特別公開は、今川義元の命日にあたる5月19日に、秋の特別公開は摩利支天祈祷会が執り行われる10月15日。そして、今川家の菩提寺となっている。
さて、この臨済寺で有名な歴史上の人物と言えば、3人いる。戦国大名・今川義元、その軍師・大原雪斎、そして、徳川家康である。
この臨済寺は、1528年から1532年の間に、今川氏親(義元の父)が、出家していた義元のために母・北川殿の別邸跡に太原雪斎を招き建立した寺院・善得院が前身と言われている。ちなみに北川殿は相模の北条早雲の姉と言われている。
1536年、義元の兄・今川氏輝が急逝すると義元が家督を継ぎ、ここに氏輝を葬った。そんな兄の法名から「臨済寺」と名を改め、雪斎は2代目住職となる。
そう言う繋がりがあったからこそ、雪斎は義元の軍師となり、天下を目指したのだ。だが、1555年に雪斎は亡くなり、1560年には今川義元が桶狭間の戦いによって織田信長に討たれる。
その後を継いだ今川氏真は駿河国を治めることが出来ず、1568年に武田信玄による駿河侵攻が起こると駿府城下に火が懸けられ、臨済寺は全焼する。氏真は掛川へ逃れるも、三河の戦国大名であった徳川家康に敗れ、ここに今川家が滅亡したことになる。
この徳川家康も、この臨済寺には深い縁があった。と言うのも、人質となって織田に送られるはずだったのが家臣によって裏切られ、今川義元のもとへ送られた時、家康はこの臨済寺に預けられ、ここで人質生活を送っていたのだ。実際、大書院の内部には、家康手習いの間と言うのが存在する。家康は雪斎に様々なことを学んでいたと言う。
現在のお寺の建物は1582年に家康が復興したものとされている。本堂である大方丈は17世紀に建立され、桁行22.7m、梁間16.8m。一重、入母屋造でこけら葺。山門の山号「大龍山」の額は、15代将軍・徳川慶喜の揮毫によるもの。
その他文化財として、今川義元坐像、太原雪斎像、徳川慶喜書、徳川家康肖像画、今川家位牌などがある。