第3回「石山本願寺跡」
信長が天下統一を推し進めて行く中で最も手を焼いたのがこの石山本願寺の一向一揆。これを平定するのに10年もかかったと言うのだから、一向宗の結束がいかに強かったか、また、いかに強大な武力を有していたかが分かる。
今で言うところの「自治」を行っていた集団で、領地もあったし、お寺はお城のように堅固な石垣があったと言う。
この石山本願寺の寺地はもとは小高い丘で、台地に沿った坂に町が形成されたことから「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたと言う。
石山本願寺は堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増して行き、次第に「寺内町」が形成されていたと考えられている。
始まりは1489年。蓮如は法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動のために大坂周辺に年に何回か行き来していた。そして、1496年に坊舎(大坂御堂)の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が大坂の源流になったとされる。
その後、石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし「寺内町」として防備を固めて行った。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭都市に至ったと考えられている。
それから、証如から顕如の時代となると西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大して行った。
証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、中央権門では天皇・公家衆へ接近を強め、基盤の安定を整えて石山本願寺の絶頂期を迎えていた。
しかし、織田信長は1568年に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求したり、1570年に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われている。これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように指示を出し、打倒信長に決起した。
この時、石山本願寺は同盟関係にあった朝倉義景と浅井長政を失い、更に信長の一向一揆殲滅戦によって次第に追い詰められて行った。いわゆる、信長が「第六天魔王」と言われる由縁となった、女子供関係なく容赦なく殺害した事件である。
顕如は何とかして体制を建て直そうと各地の門徒衆に檄文を送り応援を求めた。しかし、信長の兵糧攻めに遭い、食料の補給路も絶たれ、1580年に正親町天皇の勅令により双方の和議が成立した。
その直後、堂舎・寺内町は炎上して灰燼に帰した。その後豊臣秀吉が跡地に大坂城を築き、城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などは殆ど分からなくなってしまった。