第90回「三玄院」
京都市北区。大徳寺本坊の西側の通路を抜けた先にあり、総見院と聚光院のお向かいにある塔頭・三玄院。
ここは戦国大名の何人かでお金を出し合って建立した、大徳寺内でも珍しい塔頭だったりする。
三玄院は1586年に石田三成、浅野幸長、森忠政らが春屋宗園を開祖として創建したとされている。その後、特に何か主だった出来事があったわけでもなく平凡と時が流れて行き、1879年に大徳寺敷地内にあった清泉寺、大源庵と合併し、また、この地にあった龍翔寺の部材により再建されたと伝わる。
方丈には八方睨みの虎(波に虎図)と言う8面墨筆の障壁画があり、これは江戸時代の終わりに原在中が描いたもの。中国の禅僧で画家の牧渓(ぼっけい)の筆をもとに在中が描いたもので八方睨みの絵と言われ、上下左右のいずれの位置から見てもその虎がその方向を睨んでいるように見える。
また、龍図もあり、それは龍の動きがあまりにも早いためとして頭部などは描かれず、逆巻く波と雲、わずかに龍の鱗が溜し込み技法(墨色の滲み効果)により描かれている。他の絵画も在中が狩野派、円山派、阿弥派、土佐派、琳派などの技法を取り込んで描いたものである。
そして、自らの絵を売り込んだ画家もいた。「三玄院事件」と称するもので、長谷川等伯にまつわる出来事だ。
等伯はかねてより三玄院方丈の襖絵を描きたいと思っており、住職・春屋宗園に申し出ると、方丈は本来、選仏の場であり風雅の席ではないとして、禅寺に絵は不要と等伯の制作依頼を頑として受け付けなかった。
そこで等伯は住職の留守中に上がり込み、水墨により一気に襖絵を描いたと言う。それが等伯が世に認められるきっかけとなったと言われている。現在、その絵は東山の圓徳院にある。また、その功績を認められてか、文化財として長谷川等伯筆の「絹本著色大宝円鑑国師(春屋宗園)像」がある。