第77回「阿弥陀寺」

 京都市上京区。豊臣秀吉が京都大改造をした際にお寺ばかりを集めた通り・寺町通の北側にある浄土宗のお寺。院号は織田信長の戒名である総見院。

 建築は1555年。清玉上人が最初は近江国・坂本に創建した。その阿弥陀寺はその後、織田信長の帰依を得て今出川大宮に移転した。その当時は塔頭が13あり、壮大な伽藍を構えていたと言う。織田家が帰依しただけあり、壮大なものだったようだ。
 ところが本能寺の変が起こり、秀吉が天下を握ると寺域を縮小され、移転され現在の場所に移ったと言う。

 ところで、本能寺の変では信長の遺体や遺灰が全く見つからなかったと言うのが通説である。そのため、光秀は権力を得ることが出来ず、中国大返しをした秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りの農民に小栗栖で討たれる。
 科学的には、フラッシュオーバー現象で信長の遺体が完全に燃え尽きたと言うのが説であるが、一説によると、この阿弥陀寺を開いた清玉上人が本能寺や二条城で討死した人々の遺骸を収容し、供養したと言う。更に、これは光秀も許可していた言う。そのため、阿弥陀寺には今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。そして、本能寺の変が起こった6月2日には「信長忌」の法要が行われる。

 お寺の面積が小さくなった理由は、実は秀吉による嫌がらせだったとされている。
 秀吉は何度も阿弥陀寺に信長の遺骨を引き渡すように命じるが、信長の遺骨を利用して後継者争いで有利な立場に立とうとする秀吉の行為は、主家を乗っ取ることに等しく「人の道にあらず」と清玉上人は拒絶し続けたと言う。
 結果、秀吉が大徳寺で行った信長追善供養の際には信長の木像を棺に納めることにしたが、阿弥陀寺は秀吉の怒りを買い、寺領の大半を没収され、更に現在の場所に強制移転させられた。