第57回「花の御所跡」
京都御苑の北西、烏丸通を西へ少し行ったところの交差点の角にぽつんとある石碑。「足利将軍室町第跡」と刻まれたこの石碑は建物に同化するように立っており、ぱっと見では通り過ぎるほどのもので分かり辛かった。
この花の御所は室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。
花の御所と足利家との関係は2代将軍義詮に始まる。義詮は室町季顕からその邸宅である花亭を買い上げて別邸とし、後に足利家より崇光上皇に献上された。崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。
3代将軍義満は1378年に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営を始めた。翌1379年には寝殿が作られ、1381年に完成した。敷地だけでも御所の2倍にも及ぶ規模の将軍邸は公家社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねていたと思われる。
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた。義満はここに後円融天皇や関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催したと言われている。
1394年、義満は将軍職を息子の4代将軍義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(現・鹿苑寺)へ移る。その後、6代将軍義教が1431年に再び花の御所に住んだ。8代将軍義政は長禄・寛正の飢饉の最中に花の御所を大改築して1459年に移り住んだ。
そんな中、応仁の乱が始まると、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所に避難したために、急遽仮の内裏としての設備が整備されて天皇と将軍が同じ邸内で同居する事態となったが、その御所も1476年には戦火で焼失する。その後、室町殿は何度か小規模なものながらも再建が繰り返されたが、13代将軍足利義輝が1559年に三管領家の斯波武衛家邸宅跡に二条御所を造営・移転したために廃止された。
「花の御所」と言うと、イコール、義満の金閣寺としてしまう人が多いようなのだが、実際には上記のようなゴタゴタがあった場所なのだ。
僕の中で花の御所で印象に残っているのは大河ドラマ「花の乱」。応仁の乱の際、真っ赤に燃える花の御所を見つめながら野村萬斎演じる細川勝元が庭先で舞を踊り、どっかりと座ったかと思うとそのまま目を閉じ、主人公・日野富子を演じた三田佳子さんの「文明8年秋、荘厳華麗を誇った花の御所は、その夜、炎の龍となって黒天へ還って行きました。花の御所炎上と共に、ここを舞台に繰り広げられた様々な人々の愛も憎しみも、数多い謎めいた物語も、再び巡り来ることのない虚空の彼方へと、消え去って行ったのでした…」と言うナレーションが物凄く切なかった。