第48回「方広寺」
京都・七条。三十三間堂の北側、京都国立博物館のその奥にある豊国神社。その陰にひっそりと隠れるようにあるお寺・方広寺。
ここは言わずと知れた、1615年の大坂の陣のきっかけになった梵鐘があるお寺で、画像がまさにそれ。白く塗られた部分がその逸話に基づく部分であり、右下の部分が「国家安康」、左上の部分が「君臣豊楽」である。
方広寺鐘銘事件。1614年、徳川家康が豊臣氏滅亡をはかり挑発した事件で、豊臣秀頼が家康のすすめで方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した上記梵鐘の銘文中、「国家安康」が家康の名前を引き裂き、徳川氏を呪詛しており、「君臣豊楽」が豊臣家の繁栄を祈願しているといちゃもんをつけた事件だ。これによって大坂の陣が勃発し、豊臣家は滅亡して行くことになる。
さて、その方広寺は1595年に創建。1567年の東大寺大仏殿の戦いの際、松永久秀によって焼き討ちにされた東大寺大仏殿に代わる大仏殿の建立を1586年に豊臣秀吉が発願したのがきっかけだった。その敷地の広さは、南は現在の三十三間堂の南門まで、そして、北は京都国立博物館や豊国神社をも覆い、五条に入口を作ったとされるほどに広大な敷地だったと言われている。
だが、1596年の慶長伏見地震により倒壊。1598年には豊臣秀吉が死去する。
その後、豊臣秀頼が1599年に復興をはかるものの、1602年に火災によって焼失。一旦は大仏が建立されるものの、1662年の地震で大破。もう一度、再建されるものの1798年の落雷で再び焼失。その後は再建されることはなかったと言う。
現在は本堂を残すのみのこじんまりとしたお寺になっている。1871年、方広寺境内の大部分は明治政府に収公され、現在の規模になったと言う。
上記画像の梵鐘は重要文化財に指定されており、奈良・東大寺、京都・知恩院の梵鐘と合わせて日本三大名鐘の1つとされている。