第40回「等持院」

 京都・洛西。
 京福電鉄北野線(通称:嵐電)等持院・立命館大学衣笠キャンパス前と言う日本一長い駅名になったところにぽつんと佇むお寺。
 だが、このお寺の周りは閑静な住宅街で、週末は車の往来もなければ、人の気配もないほど、しんと静まり返っているところ。これが本当の静寂なのかと耳が痛くなるほどだったが、それが物凄く心地良かった。それだけ、都会の喧騒の中で毎日を生きているのだと改めて思えた。

 このお寺の開基は室町幕府初代将軍・足利尊氏。1341年、足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を開山に迎え、衣笠山の南麓に創建した。その後、足利将軍家歴代の菩提所となった。1467年から10年続いた応仁の乱などの戦乱や火災にも見舞われたが、豊臣秀吉も息子・秀頼に建て直させたほど、この寺は重んじられたと言う。
 現在は天龍寺派の臨済宗のお寺となっている。

 本堂である方丈は、1616年に福島正則が妙心寺の塔頭である海福院に建立し、1818年に等持院に移築されたものであり、南庭をひかえた広縁を静かに歩むと鶯張りの音が心地良く響く。
 その方丈の襖絵は狩野派の作であるが、明治時代に一部損壊し、更に1921年に映画の撮影所が等持院境内に出来て方丈がロケに使用されたためにかなり破損したが、今日修復されている。

 それから、このお寺の見どころは何と言っても、霊光殿だろう。
 足利尊氏が念持仏として信仰していた、弘法大師作と伝わる利運地蔵を本尊として、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が安置されている。
 この足利歴代の将軍像で有名なエピソードが、1863年の「足利三代木像梟首事件」である。等持院にあった初代・尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒された事件で、徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊攘運動の1つだったと言う。