第103回「木幡山伏見城」

 京都市伏見区。近鉄丹波橋駅の手前くらいから見えて来る、小高い丘の上に築かれた城。
 1596年、慶長の伏見大地震を受けて最初の伏見城であった指月伏見城が倒壊し、この地に移築したのが始まり。第102回でも触れたが、木幡山伏見城は今で言うところのプレハブ建築方式で指月伏見城の大部分を移築し、同年内に築かれた。

 その後、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦では、ここを守っていた鳥居元忠らを石田三成勢が攻め、落城。鳥居元忠以下、家臣はこの中で切腹して果てた。その時に流れ出た血を吸い込んだ床板が京都市内の5ヶ所のお寺に「血天井」として供養されている。最も有名なのは、三十三間堂東側にひっそりと佇む養源院と言うお寺だろう。豊臣秀吉の妻であった茶々(淀殿)が父・浅井長政と母・お市の方を供養するために建立し、茶々の妹であり、徳川2代将軍秀忠の妻である江が再建したお寺だ。

 関ヶ原の戦いの後、今度は徳川家康が伏見城を再建。1602年、家康はこの伏見城において征夷大将軍の将軍宣下を受けることになる。普請奉行は城造りの名人として知られる藤堂高虎が行ったと言う。そして、1605年には徳川秀忠が2代将軍の、1623年には徳川家光が3代将軍の将軍宣下を伏見城内で受けた。そして、1623年に伏見城は廃城が決まり、伏見奉行所の管理下に置かれ、幕末まで立ち入りが制限されたと言う。

 そして、この木幡山伏見城は現在、本丸跡付近は明治天皇陵となっており、立ち入りが禁止されている。それから花畑曲輪跡には1964年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が作られ、徳川時代の天守をモデルにした模擬天守が建てられたものの、2003年に閉園。天守閣は建物の老朽化に伴い、中に入ることが出来なくなってしまったものの、市民のシンボルとして、現在も外見を見ることが出来る。