第10回「銀閣寺」
室町幕府第8代将軍・足利義政が祖父の第3代将軍・足利義満に対抗して作ったと言われる。正式名称は慈照寺・銀閣。
当時の幕府は将軍の権力が衰え、守護は将軍の命令に従わず、民は徳政一揆を起こすほど。実際、義満が亡くなってから将軍が次々に交代した。第4代将軍・義持が跡継ぎを決めなかったばかりに、第6代将軍は義持の兄弟で、寺へ入れられていた義満の息子の中から決められたほど。そして、第6代将軍となった義教は自分に刃向かうものを容赦なく次々に殺害して行った。最終的には義教自身も暗殺されてしまう。
義政は将軍の威光を取り戻そうと、幕政に意欲的に取り組もうとする。だが、それが今で言うところの「KY」だったために、逆に徳政一揆が勃発したり、守護大名の相続争いが頻発したり。
そんな義政に息子で第9代将軍・足利義尚も従わず。「優柔不断、無能な将軍」のレッテルを貼られ、その結果が1467年の「応仁の乱」だ。戦いは10年続き、京都は焦土と化した。
そんな光景に、さすがの義政も自身の政治的能力のなさを痛感し、嫌気が差して銀閣寺に隠居したと言われている。
さてさて。そんな銀閣寺だが、銀箔を貼った痕跡がどこにも見当たらない。これは様々に言われている。最初は義満の「金閣寺」に対抗して銀を張るつもりだったが、自身の政治的能力のなさに嫌気が差して貼らないことにしたとか、予算オーバーしたとか、銀閣寺を造営中に義政が死去したとか。
ただ、そんな銀閣の西側には今もきれいに手入れされている庭・錦鏡池がある。京都白川の白砂を用いて盛られたと言う庭園の名前は「銀沙灘」。そして、プリンのような形をした高さ1.8mの「向月台」。それらが月に照らされると銀色に輝く。だから、建物が銀色でなくても、このお寺はちゃんと「銀閣寺」なのだ。