第5回「崇福寺」

 実家から南西方向へおよそ1km。僕が通っていた中学校のすぐ近くにあった、これまた由緒が在るお寺。簡単に言えば、織田家と繋がりが深いお寺でもあり、更に、有名なお坊様にも縁があるお寺なのだ。このお寺は臨済宗・妙心寺派のお寺である。

 建立は1469年。京都が応仁の乱で大変なことになっている時に建立されたことになる(一説には鎌倉時代に建立されたとも言われている)。
 それを1567年、織田信長が斉藤道三の孫である斎藤龍興を滅ぼして美濃に移った際、このお寺を織田家の菩提寺としたらしい。実際、このお寺には信長と息子である信忠の廟がある。これは1582年、本能寺の変で信長は本能寺で、信忠は京都・二条御所で討たれた際、信長の側室であるお鍋の方がその遺品を岐阜城から崇福寺へ持ち込み、今、廟が建っているところへ埋め、更に、位牌を安置させたと言われている。
 それから、崇福寺には信長が愛用していたと言われる南蛮時計など、様々な寺宝が残されている。

 更に、本堂の天井には、血天井が取り付けられている。これは1600年、関ヶ原の戦いで西軍に就いた信長の孫である秀信の家臣38名が岐阜城落城の際、そこで自害をして果てたため、崇福寺がそれを譲り受け、供養のために本堂の天井板に使用したと言う言い伝えがある。

 そして、このお寺の住職3世である快川昭喜(かいせんじょうき)はなんと、あの「心頭を滅却すれば、火も自ずから凉し」と言う有名な言葉を残した方なのだ。
 この快川昭喜は土岐氏の血筋と言われており、和尚が甲斐国(今の山梨県)の恵林寺(武田家に縁のあるお寺)にいた1582年、織田・徳川連合軍の焼き討ちにあった際、寺の堂内に篭っていた他の僧や女性、子供と共に焼き殺された際に残した言葉と言われている。
 この、僧や女性、子供にまで手をかける信長のやり方に危機感を抱いたことがきっかけで、明智光秀が本能寺の変を起こした一因になったのではないかと言われている。